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ジョン・テニエル ~John Tenniel ~

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Sir John Tenniel   1820年2月28日 ~1914年2月25日


不思議の国のアリスの挿絵画家、ジョン・テニエルは1820年イギリスのロンドンに生まれる。テニエルはユグノーの末裔でダンスとフェンシングの教師をしているジョン・バプティスト・テニエルの第三子としてこの世に生を受けた。


英国王国美術学校に入学するが中退している。その後写生の練習をする為に美術教会に通い、彫刻の研究をする為に大英博物館にも出入りをよくするようになる。ほとんど独学で絵の勉強を進めていく。16歳の時に初めての油絵を英国美術者教会へ出品する。その時に出品した油絵には買い手がついた。1837年題名「ナラティヴ・ペインティング」が王立美術院展で入賞をする。


20歳になったテニエルは父ジョンとのフェンシングの試合中に事故で右目を失明してしまう。テニエルはフレスコ画の技術を学ぶためにミュンヘンへ渡って勉強をする。1848年出版の『イソップ童話』には挿絵が百点以上も掲載された。その挿絵の腕が評価され『パンチ』にも参加するようになる。パンチには数々の名作が残されていく。


私生活では三十代前半に結婚をした。しかしその二年後には妻は亡くなってしまう。妻を亡くしてからは義母と一緒に生活を送る。その後は妹と一緒に過ごした。


1893年にグラッドストーン首相の推薦によりテニエルにはナイトの称号が与えられた。1914年2月25日、94歳の誕生日を3日後に控えたテニエルは静かに息をひきとった。


 




 


不思議の国のアリスが出版された時テニエルはプロの画家、一方キャロルは無名の作家であった。キャロルは以前にも本名のチャールズ・ラトウィッジ・ドジソンとして数学の研究所を二冊出版していたがあまり知られていなかった。無名作家の本が有名新聞の『タイムズ』でクリスマスの翌日に紹介されたのはテニエルの名前があったからかもしれない。


不思議の国のアリスが大ヒットしたにもかかわらず続編の「鏡の国のアリス」の挿絵の依頼をテニエルは断っている。キャロルは挿絵画家のリチャード・ドイルに依頼するが期限までに仕上げられるかどうかわからないという理由で断られている。困ったキャロルジョウゼフ・ノエル・ペイトンにお願いするがそれも断られる。キャロルの日記を読むとその他にプロクターという人物にも依頼したことがわかっている。結局テニエルがしぶしぶ鏡の国のアリスの挿絵の仕事を引き受ける。


テニエルが渋った理由はキャロルの挿絵に対する注文が厳しかったからだと言われている。キャロルは出来上がった挿絵を拡大鏡で見て一平方インチあたりに線を何本描いたかまでチェックした。


挿絵画家として仕事を共にする相手としては非常にやりにくい相手であっただろう・・・。


 




 


裁判 


アリスとグリフォンが裁判が開かれている場所に到着した時の様子です。テーブルの前には鎖に繋がれたジャック、テーブル席には鳥の弁護士が座っています。そして白うさぎは裁判の巻物を手にしています。テーブルの上にはパイが並べられた大皿が描かれています。


 




 



この絵は「鏡の国のアリス」の挿絵です。ライオンと一角獣です。中央にいるのがアリスです。




 



「鏡の国のアリス」より。白の騎士とアリス。この白の騎士はテニエルの同僚であるホーラスPonny Mayhew ポニー・メイヒューがモデルであったと噂されました。しかしそれをテニエルは『この白の騎士よりポニーの方がハンサムだ』と否定しています。




 


ジャバウォック


「鏡の国のアリス」より。ジャバウォックと若き騎士。この絵は元々鏡の国のアリスの巻頭で登場する予定でした。しかし子供が見るにはあまりにもグロテスクだという意見が出た為に、物語の途中で使うことになってしまいました。




 


 


 

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